
補陀落山 覚 浄 寺 浄土真宗本願寺派
浄土真宗本願寺派
補陀落山 覚浄寺
覚浄寺の歴史(本堂改築五十周年報恩法要 表白より)
顧みますと、覚浄寺は平安のいにしえ、湖大東公藤原清見卿が安食の荘の氏寺として天台宗の照明寺を創建されたことに始まり、その後室町時代の応仁・文明の頃、本願寺八世蓮如上人の近江ご教化に際し、照明寺二十八世清魚卿は大津近松御坊に参詣して、上人から「蓮信」の号を賜り浄土真宗に帰入され、村人と共にお念仏相続に努められました。
ところが、戦国末期に豊臣秀吉の焼き討ちに遭い照明寺は荒廃、奥の院の現在地に移って「補陀落山宝珠院覚浄寺」が建立されましたが、江戸中期の当字「半夏生の大火」によって再び焼失しましたので、くずや葺きのお堂が建てられました。このお堂が改築以前の本堂で、およそ二百六十年の歳月を経過して老朽著しく雨露に耐えがたかったので、その一日も早い改築は門信徒の長年の念願となっていました。
昭和十二年、鳳城住職は改築を決意し、門信徒と共に広く内外有縁のかたがたのご支援を頂いて、資金・用材も整い、当に工事にかかろうとする時、無謀な太平洋戦争に突入し、多くの若者が戦に駆り出され尊いいのちを奪われました。
その上、昭和二十年六月には、本堂改築のためにご寄進頂いた貴重な用材まで供出させられ、改築計画は虚しく消えてしまいました。その時の住職・門信徒の無念さと悲しみを思いますと今なお涙を禁じえません。
しかしながら、先人たちはこの困難にも決して挫けることなく、戦後の混乱もようやく収まりかけた昭和二十七年には改築に向かって再び力強く立ち上がられたのでした。厳しい生活の中での積み立て・仏壮・講衆の托鉢・共作田の耕作・工事に入ってからの連日の出労などなど、大変な苦労や困難がありましたが、その苦労や困難に打ち克って大業を成し遂げられたのでした。これひとえに先人の改築にかけられた燃える熱意と仏祖のご加護のおかげさまでした。
そして、昭和三十六年四月二日 遂に大願成就して本堂改築落慶法要と親鸞聖人七百回大遠忌法要が勤められたのでした。おもいますに、完成までの道のりが長く険しかっただけにその喜びと感激もひとしお大きいことだったに違いありません。
本日 五十周年報恩法要をお勤めさせて頂くに当たり、私たちはこの先人たちの偉業とご苦労を偲び、如来大悲の恩徳を謝しつつ、いよいよお念仏相続に努めたいと念じてやみません。
平成19年11月11日
補陀落山宝珠院覚浄寺十八世 釈門卓明謹んで申し上げます。
